原産地呼称に関する法制度の発展

           -統制呼称(AOC)の起源―

                       高橋 梯二

本稿では、1947年にカピュ議員によって書かれた「原産地呼称に関する法制度の発展―AOCの起源―」のフランソワ・デ・ランジュリによる抜粋(Extraits choisis par François des Lingeris du texte de  « L’Evolution de la Législation sur les Appellations d’Origine - Genèse des Appellations  Contrôlées - » par Joseph Capus en 1947)の翻訳を紹介する。

AOC法成立の過程

フランスでは、19世紀後半から20世紀所初頭にかけてワイン市場の混乱が生じていた。混乱のきっかけとなったのはアメリカから侵入してきたフィロキセラによってフランスのブドウ畑の約3分の1が壊滅したことである。ワイン不足からワインの搾りかすに水と砂糖を加えて作るいわゆる砂糖ワインや輸入レーズンに水を加えて発酵させるワインなどまがいもののワインが横行した。さらに、ブドウ畑を復興させる過程で、フィロキセラやアメリカ原産のベト病にも強いアメリカ品種やフランス品種との交配種が多く植えられるようになった。アメリカ品種とその交配種は、収量も高く、栽培も容易ではあったが、ワインにすると品質が落ちるものであった。さらに、名醸ワインに見せかけるワインの偽装も頻発した。このようにして19世紀中頃までに築き上げてきたフランスワインの質の低下が著しくなったのである。また、20世紀になると一転してワインの供給過剰が生じ、ワインの価格が暴落し、南フランスではブドウ生産者の大規模な反乱が勃発した。

このようなワイン産業の混乱に対処するため、19世紀末から法律による規制が次々と導入された。最初にとられたのがワインの定義を定め、砂糖ワインやレーズンワインなどのまがいもののワインを真正なワインと区別し、さらに、水や特殊な着色料などをワインに加えることを禁止した。残る最大の問題は低級ワインを名醸ワインに見せかけるいわゆる偽装の防止であった。1905年に不正の防止に関する法律が制定され、ワインの偽装などの不正に対して罰則をもって対処することにしたが、それだけでは、不正を防止し、ワインの質を高めることはできなかった。

不正に対して罰則を適用する以上、正しいものは何であるかを明確にする必要があった。ワインについては当時までには知的所有権として確立しつつあった上質ワインの原産地呼称とは何か決める必要があった。そのために、まず、とられた措置が行政命令(政令)によって原産地呼称ワインの産地を確定することであった。ボルドーやシャンパーニュが行政命令によって産地の確定が行われたが、特に、シャンパーニュについては地域のブドウ栽培人を納得させることができず、大規模な反乱を繰り返すこととなった。産地の実情を十分考慮しない行政命令に代わり、産地の関係者間の争いを裁判によって解決していく形で原産地呼称の産地を確定する法律が1919年に成立した。これが「原産地呼称の保護に関する法律」である。この法律では、原産地呼称の定義規定が明快でなかったため、多くのブドウ栽培人と裁判所は、産地区画が決められればよいのであって、品質を証明するためのブドウ品種などの生産の条件は規制されないと解釈した。また、破棄院(最高裁)も1919年法は生産条件を確定することを要求していないとの解釈を示した。そのことによって、多くの産地で従来の良質ワインを生む品種に代え、単収が高く栽培が容易な劣悪品種が原産地呼称産地で植えられるようになった。

フランスの上質ワインの質の低下を心配したジロンド県(ボルドー)出身のカピュ議員らは1919年法を改正し、原産地呼称にとってその産地を確定することのほかに産地に応じた生産条件を定め、品質を証明する法律を制定する運動を開始した。しかし、議会は生産条件を定めることには反対が多く、特に、単収規制には反対であった。また、裁判所は、それほど質の良いワインを産しない地域についても原産地呼称産地として認定する傾向にあった。

しかし、当時のワインの過剰生産と質の低下のなかで、生産者自らが生産の条件を受け入れワインの質を維持していくことが最終的に生産者の利益を守ることになるとの認識が高まっていった。また、通常消費ワインについては、生産抑制措置を受け入れることとなった。

このようにして、1935年に、生産者間の合意を基礎とし、産地区画とブドウの品種、最高限度単収、アルコール最低度数など生産条件を原産地呼称ごとに政令によって定め、管理・統制するAOC法が成立した。このAOC制度は真正な原産地呼称ワインを裁判等によって認定された、あるいは劣悪品種を植えている不誠実ともいえる原産地呼称ワインと区別する意味を持っていた。30年間の検討の末、AOC法の成立によってフランスワインの生産のありようがようやく確立したのである。

AOC法の現代的な意義
(1)
品質の証明

AOC法は、フランスワインの質とオリジナリティは産地によって識別するとの認識に基づいている。法制度成立当初は産地のみで識別し、品質を決定づける生産条件については法律としては介入しないという商標法に似た制度であった。これは当時の自由な経済活動の原則を尊重したものであろう。しかし、多数の生産者が同一原産地に存在するワインについては、生産条件の規制がないと劣悪なワインが生産される危険性があった。原産地呼称にふさわしい質とオリジナリティをもった品質を確保するためには生産の条件の規制が必要と判断されたのである。生産条件の基準となったのは19世紀中頃までに確立されたフランスの伝統的な生産方法であった。

したがって、AOCワインは、原産地をベースとしたワインの特質と品質を証明していることになり、これが商標法による産品と異なる点である。商標は単に産品が他のものと異なることの識別に過ぎず、産品の内容をなんら証明していない。商標法による産品についてはその生産方法は基本的には企業秘密であり、販売戦略上有利になることは消費者に積極的に知らせるが、そうでないことは明らかにしなくてもよい。しかし、AOCワインは、生産の条件と過程を消費者にも明らかにし、INAOと行政がそのとおりに生産しているかどうか管理している。よって、AOCワインは、生産者と消費者との間で内容について契約し、保証している産品であるとの見方もある。

(2) 信頼感と安心感の確保

不正の防止と呼称の保護に関する手厚い措置が導入されているのもAOC法の特色である。AOC法の独創的な点は、AOCワインを生産から消費にいたるまで追跡できる制度を取り入れたことである。生産段階ではブドウ収穫量の申告、ワインの生産量と在庫量の申告の義務など生産段階でできるだけ正確に量を把握することである。また、流通段階ではワインの取引についてAOCワインごとの記録を義務付け、必要な場合には公的機関が閲覧できることになっている。この産品追跡システムは、今日でいう「トレーサビリティ」であり、BSE発生後、食品の安全をめぐり、世界でさんざん議論された末、高度の食品安全と表示の信頼性を確保するため、21世紀初頭欧米で法的義務として導入された。このトレーサビリティの考え方はAOC法で今から70年以上前の1935年に取り入れられていたのである。この不正の防止に関する仕組みによってAOCワインに対する消費者の信頼感と安心感が確保されている。

(3)食の文化と多様性の維持

AOCワインは、生産される場所が限定され、ブドウの収量も制限されるので、生産量の拡大は望めない。その不利益は、高い品質による高い価格によって補われるとの考えに基づいている。これは、大量生産・大量消費による利益の追求とは原理を異にしている。

 第2次大戦後、アメリカの食品生産方式が世界中に広まりつつあった。これは、大量生産・大量消費を前提とし、質や風味について地域の特色をなくし世界中どこでも同じものにすることによって合理的な価格で食品を提供するという原則に基づくものであった。これに対し、フランスでは、食品は本来画一的なものでなく、地域に由来しオリジナルなものであるべきという食文化の伝統があり、これを守る必要が生じてきていた。AOC法はこのフランスの食文化と伝統を守る重要な手段と認識されるようになった。

(4)AOC理念の広がり

AOC法の理念と手法は、ワインのみでなく、その他の食品の制度にも大きな影響を与えていった。第二次大戦後しばらくしてから、大量生産・大量消費をベースとし、画一的な品質による合理的価格を追求するアメリカ流の生産方式がヨーロッパにも広まりつつあった。ヨーロッパの食の伝統と多様性の崩壊を恐れたフランスは、AOC法の食品の品質を維持する手法を取り入れたラベル・ルージュ(農業ラベル)を1960年の農業の方向付けに関する法律で導入した。その後、1990年にはAOC制度をすべての農産物・食品にも適用できるように法改正を行った。さらに、1992年末のECの単一市場の形成に際しては、原産地と伝統をベースとするEC加盟国共通の食品品質証明制度が導入されたのである。これもAOC法の理念が基になっているといえよう。

(5)国際貿易上の問題

しかし、AOC産品をはじめとする品質証明産品は、生産プロセス規制の産品ともいわれ、食文化を異にする国との間で貿易摩擦を引き起こすことになった。これは、ヨーロッパラテン民族の食文化とアングロサクソンの食文化の対立ということもできる。アメリカ等の意見は、「産地」という基準は、他の人がどんなに努力しても越えることができない貿易障害であり、ヨーロッパは、これによりAOCワイン等を国際市場での競争にさらさず、差別化を図っているということであった。したがって、アメリカ等は長い間、AOC制度を国際的に認めてこなかった。しかし、1994年に妥結したウルガイラウンドにおけるTRIPSADPIC)協定において130カ国以上がAOCワインなどの「地理的表示」を知的所有権として加盟国が一定の保護(地理的名称使用の禁止)をしなければならないことに合意した。この地理的表示の定義は、AOCの定義とほぼ同じであり、この協定の成立によってAOCの理念が地理的表示として商標とは異なる独立の知的所有権として確立し、国際紛争がある場合は制裁措置を伴うWTOの係争手続きを適用するという国際的強制力を持つものとなった。現在では、EU27カ国のほか、約45カ国が、定義は多種、多様であるものの、地理的表示として原産地呼称を採用するようになっている(ジャック・オーディエ)。また、開発途上国も自国の伝統的な産品の名声を高め、地理的名称の悪用から保護し、地域経済の発展の視点から地理的表示を重視し始めている。しかし、アメリカ等はワインと蒸留酒の国際登録に関する交渉を拒み続けるなど、地理的表示の保護の程度や国際的保護の方法などについてWTO加盟国間で対立があるのも事実である。

(6)AOC理念のさらなる拡大

21世紀になって、食品の品質について消費者の選好がネガティブな品質からポジティブな品質に移行してきた。ネガティブな品質とは安全や栄養面で欠陥がないことであり、ポジティブな品質とは、美味であること、伝統や文化を体現していること、環境に配慮していること、健康に良いことなど食品のより積極的な価値が確保されていることである。消費者のこのポジティブな品質の要求に応える方法として生産の過程を管理しその品質の内容を証明するいわゆるプロセス規制が導入されてきている。

AOCの制度は、商品を見ただけでは分からなく、また、科学的分析をしてみても分からない品質について、生産のプロセスを明らかにし、それを管理することによって証明する食品の品質証明制度つまりこのプロセス規制の出発点でもあった。

以上のように、AOC法の理念は、現在において、食品及び農産物の品質制度に大きな影響を与えている。20世紀の100年間は、食品の生産過程に行政が介入せず、品質は生産・販売する企業と購入する消費者とをつなぐ市場を通じて決まるとするのが原則であった。しかし、21世紀になって、食品の高度の安全と多様な品質を確保する上で、生産過程と生産の条件を重視する方向に向かっている。生産条件を設定し品質を証明する制度を世界で初めて導入したAOC法の理念と手法が見直されているのである。この点で、本稿の1905年から35年までのフランスの法律制度の30年間の議論は興味深いものがある。

 なお、日本では、地域集団商標制度が2005年に商標法の改正によって成立した。しかし、AOC法成立までの検討経過と食品の品質に対する信頼確保についての消費者の最近の強い要求を考慮すると、地域の特色ある食品を認定し、普及していく場合、商標法の理念のみで律していくのは限界があると思われるのである。

原産地呼称に関する法制度の発展

  -統制呼称(AOC)の起源―

Extraits choisis par François des Lingeris du texte de
 « L’Evolution de la Législation sur les Appellations d’Origine - Genèse des Appellations  Contrôlées - » par Joseph Capus en 1947

                    高橋 梯二 訳

上質ワインの原産地呼称の基本

今日、フランスの高級産品の中で上質ワインと蒸留酒ほど管理・統制されているものはないであろう。この管理・統制は、生産者に対して課されるというよりは、フランスのワインの豊かさと栄光が多くの不正によって崩壊するような深刻な危機に終止符を打つため、生産者自身からの要求によるものであった。

 この管理・統制を確立した法制度は即興によってできたものでなく、30年かかって(1)ようやく形成されたのである。その間、議会においていくつかの法案が提出され、また、それ以上の報告がなされ、検討が重ねられた。ワインの危機は、不適切で現実を無視した法制によってもたらされ、フランス農業の歴史において生じた最悪の反乱の原因にもなった。原産地呼称に関する法制は誤りの連続であったことが分かる。法制度を作り上げるための検討は、現実を誤解するという重大な欠陥に陥っていた。純粋理論あるいは机上の法律論から導かれたものであった。本来は、人間の側面から、つまり、法律を遵守する人間の行動や生産の本質的な条件を律する問題をとらえるべきであった。

 法制度の検討の期間において二つの異なる主題が対立していた。原産地呼称は、単に原産地(出所)を示すものでなく、オリジナリティと品質に関するものである。私が「事実主義」といっている考え方は、原産の思想と品質の思想を切り離すことはできないことを意味している。これとは異なるもう一つの考え方があり、それは事実を完全に無視し、ただ、字句のみをとらえているものである。つまり、原産地呼称は地理的な原産を示しているというもので、原産の中にあるその他の事項、つまり、ワインのその他の特徴を考慮せず、原産のみを保護することで足りるとするものである。

 最初の考え方によってのみワインの品質を維持することができ、また、消費者とまっとうな生産者に対して品質を保証することができるのである。しかし、信じられないことに第二の考え方が長い間支配的であった。

 原産地呼称の保護においては二つの事項を考慮しなければならない。ワインはその呼称によって指定された地域からのものでなければならないとする出所の真正さを消費者に保証しなければならない。しかし、それだけでは十分でない。指定された地理上の地域の中に、ほとんどの場合、上質ワインの生産を可能とする土地のほかに、外延部に他の性格を持つ土地があって、草地や穀物のみに適した土地や湿地もある。土地は、産品のオリジナリティと質を形成する要素の一つであり、不適切な土地に植えられたブドウからのワインは指定された原産地呼称の価値がない。指定された地域内では呼称の名声を形成する単収の低い高貴なブドウ品種を栽培することもできれば、低い品質のワインしかできないような単収の多い凡庸なブドウ品種を植えることもできるのである。したがって、産品の出所の真正さを保証するのみでは十分でない。土地やブドウ品種に依存する品質を保証することが重要である。

 法律の検討の最初の段階からこの二つの保証が結びついていなければならなかったが、不幸なことにそうでなかった。原産地呼称においては次を考慮し、保護しなければならない。

  1 地理的な原産、2 生産の用法(Usage

 呼称を保護する法律は、この二つの要素を同時に考慮しなければならない。それは、産品の品質を律するものと呼称を決定するものである。もし、これらの要素を切り離してしまうならば、根拠がなく、恣意的な人為的なものとなってしまう。というのは真実と密接に結びついている事実の秩序を分離することになるからである。1905年の法律以来、法律の形成過程は、この誤りの方向に向かってしまった。

1905年法(2)

 1905年8月1日に成立した法律については、経済の視点からは完全で有効だった。科学の発達によって、頻発し、次第に危険になっていく不正の防止の基礎となった。また、この法律は、通常消費ワインの不正からの危機を救ったのである。しかし、当時評判を落としつつあった上質ワイン、つまり、原産地呼称ワインについては、この法律は不正防止の意図を表明するのみであった。これから説明するように初期から残念な方向に向かっていったのである。

呼称に関する地域の確定を進めることになったのは、この法律の結果である。1905年法の目的は不正を防止することにあったので、正しい産品とは何かを同時に決める必要があった。つまり、ワインについては決定された原産地呼称の名称を保護する権利のある地域とは何かを正確にする必要があった。1906年にはブドウ栽培人協会は、原産地呼称に関する会議を組織し、そこで、上質ワインの産地の代表者が彼らの産地のワインの名称をどのようにするかについて意見を述べ、議論するため参加を要請されたのである。

私は、ジロンド県の産地について詳しい報告書を提出した。法律が保護すべきは原産のみでなく、品質であると考えた。品質とはワインのオリジナリティを形成する特質である。また、試飲検査、オリジナリティを決定する自然の要素、ワインの品質、土地及びブドウの品種の重要性を訴えた。それと同時に自然の要素、たとえば、ブドウの品種や土地から生じる品質を保証することを考慮しない単に原産のみによって呼称を認定することの危険性について注意を喚起した。

このことについて、私は、「事実、原産のマークは保護されるが、所有者にとっては、名声を得ている地域において不適切な土地で単収の高い品種を植え、中庸の品質のワインを生産することもできる。絶対的に真正なワインはあるが、産地を汚すことがありうる劣る品質もあるのである。」と述べた。また、品質に重点を置く観点から、試飲検査の重要性を無視することができなかったので、「裁判所が呼称を定めた産地からのワインであることは、唯一の方法、つまり、試飲によってのみ証明される。」と述べた。

 この目的のため、関心のある地域のブドウ栽培人とネゴシアンからなる委員会を設立し、ワインの化学者と協力していくこととしたのである。ワインに関するすべての要素の結合によって各々のワイン特有の風味が形成される。ある一つの広い地域、たとえば、メドックで生産されるすべてのワインに共通する特質を認識することができる。また、鑑定家が重視する名声にふさわしい一つの村、一つのテロワール又は一つの畑(クリュ)に限定された純粋にある特定地域に影響される独特の持ち味を識別することもできる。

 試飲は、他の芸術と同じように、それが適用される方法により純粋に主観的なものである。しかし、各地域において認められた鑑定家、誠実な人、有力な専門家になりうる能力を持った人がそれなりに存在するのも事実である。試飲によってなされうる証明から生じる新しい要素は、ブドウ栽培人にとって励みにもなるし、彼らの原産地呼称の名声を護ることにもなる。

 以上に加え、私は、行政命令による産地区画の確定の方法を批判し、裁判による産地区画確定の考え方を最初に提案したのである。

法制度
行政命令による段階
シャンパーニュの反乱(3)

 1905年法の下で行政命令によってワインの産地を確定する措置がとられた。しかし、これは、クレマンテルがいったように近代市民戦争に次々と発展していく危険な道だったのである。それは、ストライキであり、納税拒否であったり、最後には反乱であった。

 最初の政令はシャンパーニュに関するものであった。シャンパーニュの歴史的地域においては、それぞれが属するマルヌとオーブの生産者間の深刻な対立があった。マルヌの土地とブドウ品種はオーブのものとは大きく異なっていた。生産に関する自然条件が同じでなかったにもかかわらず、以下に述べるように行政命令による産地確定は、一つの名の下で混同してしまったのである。

 シャンパーニュの産地確定に関する最初の政令は1908年12月17日に制定された。この政令によってオーブのブドウ栽培人はシャンパーニュの呼称使用を拒否された。しかし、マルヌのブドウ栽培人を満足させることもできなかった。1911年1月17及び18日に反乱が発生した。

この反乱の後に下院議員のアンドレ・ルフェーブルが1906年の私の報告書を引用し、私が示した主題を引き継いだ。1911年4月3日の議事において、彼は次のように発言している。

「法律は、行政的に、産品の価値のすべてはその土地で収穫されたことに帰属させるので、これは架空のものであり危険である。劣悪な土地に疑わしい品種のブドウを植え、平板な品質のワインを生産することに重点を置くようになる。また、行政命令による産地確定の方法によれば、法律上あるいは規則上名声のある呼称を使う権利が生じ、将来、政府の保証とお墨付きによって大量の劣悪なワインや劣悪なボルドー、劣悪なシャンパーニュが供給されるようになる。産品の名声を高め、権威を高めるようにはならない。」

 1911年6月7日付けの政令は、マルヌのブドウ栽培人を2度にわたって支持し、満足させるように制定された。これによってワイン商の館が略奪された。また、これを鎮めるため軍隊の助けを必要としたのである。行政命令による産地区画の確定は、ボルドーでも行われた。

 行政命令による産地の確定作業は、二つの間違いを重ねることになった。一つは行政の介入は恣意的であり、もう一つは、行政命令がワインの品質を決める実質的な要素、つまり、土地と品種を抽象化することにより、地理上の原産のみを考慮するようになったことである。

 この時点から議会において二つの概念が対峙することとなったのである。第一の概念は原産地呼称において品質を保証することであり、第二の概念は単に原産のみを要求することであった。この二つの概念は、アンドレ・ルフェーブルによってなされた議会での発言に始まり、1935年7月30日の法律(デクレ・ロワ)の成立まで続いた。この間は裁判による産地の確定が行われた。

裁判の段階
実質的な品質の考慮

 1911年6月30日、パム(Pams)農務大臣は、裁判による産地確定の方法を採用する法案を下院事務局に提出した。第1条は、原産を名のることができる産品の決定にとって、裁判官が原産自体とは独立してその産品の性質、構成及び実質的な品質について考慮できるということであった。行政命令による産地確定の方法は放棄され、新しい方式となったが、前に述べた対立する二つの概念はぶつかり合うことになった。

 1913年2月27日、ダリアックは、「産品を生産する唯一の者であるブドウ栽培人のみが原産地呼称を使用しなければならない。ワイン商についてはそのワインが原産地呼称の定義に合致したとしても呼称の権利はない。」と報告した。この議論において考慮されなかった唯一の関係者は消費者であった。購入する者の要求も考慮すべきであったろう。

 議会に付託される前にジロンド商業及びブドウ栽培協会に提案され、長い議論の末、1913年9月18日ボルドーの合意が得られ、政府はその意見の大部分を取り入れた。

 この法案の重要点は、次のようであった。

(1)原産地呼称は所有権の一つである。関係する争いを律する裁判所の判決によって決められる。

(2)法律は、一定の名声をもって原産地呼称を名のるすべての農産物を対象とする。

(3)法律は、原産地で生産されるという理由のみでなく、価値を賦与する植物品種、栽培の方法などによって価値が得られるという理由から認定された原産地呼称を保護する。

 農業関係全組合の合意を得た法案は、農務大臣によって議会に提案され、「実質的な品質」という用語がいくつかの条文に含まれていたのである。つまり、原産地呼称の権利を有するためには、産品が原産の地域で得られること及び呼称の名声を形作る産品の実質的な品質を示すことの二つの条件が満たされていなければならなかったのである。

 しかし、この法律の成立までの経過をみると、議会の検討の方法は欠陥が多く、さんざんな結果に終わったのである。法案は1913年11月13日に下院で審議され、その後5回審議されたが、法案の当初の目的は完全に無視され、混乱に陥った。前述の二つ概念は対峙したが、実質的な品質によって補完される原産の概念は、審議において維持されなかった。議員は、原産地呼称は集団的な所有権でなく、その地域のブドウ栽培人が共通して有する権利であり、各自が呼称を使用できるが、それが悪用されることはないと信じていた。

 原産地呼称の法的性格について議会でさらに審議されたのは、後のことであり、特に原産地呼称の集団的な性格についてはジュヌヴリエの報告によって議論され、次に述べるような結論となった。

ジュヌヴリエ報告

 下院での投票後、法案は上院に送られ、そこで委員会が設けられ、検討の結果ジュヌヴリエが1914年7月22日に結論を説明した。それは法律的に興味を引く内容で、原産地呼称は集団的な権利であり、個人の所有権ではないという原産地呼称の真の性格をとらえたものであった。この報告の中の原産地呼称に値する産品の品質に関する部分をみると、彼は、「産品の名声は何世代にもわたって行われてきた長い努力の結果とそれに対する報酬に由来する。」と報告している。しかし、原産地呼称を使用する権利にとって必要な品質の保証は考慮されなかった。この報告書の価値は高く評価されるものではあったが、1919年法に含まれる残念な結果は少なくなることはなかった。

 第一次大戦の勃発によって法律成立への進展が阻まれた。そして、戦後の平和が訪れるまで、特に、ヴェルサイユ条約が原産地呼称の国際保護の原則を打ち立てるまで、議会で取り上げられることはなかった。法律は、1919年5月6日に成立した。

1919年法のさんざんたる結果

 平和が戻り、ブドウ栽培人が新たな植栽ができるようになると、1919年法の欠陥が直ちに現れてきたのである。慣習が法律を求めるのであれば、逆に法律が慣習に影響を与え、また、低下させることもあるのである。1919年5月6日の法律は、慣習と法律との間によく発生するこのような典型的な例であった。多くのブドウ栽培人が今までは諸法律に慎重に対応してきたが、上質ワインには不適切な土地で単収の高いブドウを新たに植えることの不誠実に気をとめなくなった。これは、競争を激しくし、呼称の名声を危うくするものであった。

 このような状況の中で、有名な呼称の権利を持つ白ワインの産地のバルザックやソーテルヌで赤の通常消費ワインの品種に変えられていくのが見られた。これらのワインは呼称の名声にふさわしい品質ではなかった。また、バ・メドックにおいても同じようなことが生じ、フランスの古いブドウがフランス品種とアメリカ品種との交配種(4)変わっていく現象が生じたのである。交配種は、単収が高く、栽培が容易で病害抵抗性が高いが、この地域における古い品種よるワインに比べ大幅に品質が劣るのである。

 私はこのような動向に驚くとともに、1906年の私の報告において懸念した事態であった。ワインに関する法制はこのように逸脱の方向に向かったのである。

1919年5月6日付法律改正の運動

 法律制定から数カ月後の1919年11月ジロンド県から下院議員に選出され、私は欠陥のあるこの法律を改正する決意をした。最初に訪問したのは農務省管轄の不正防止当局の所長であったルー氏(Roux)であった。彼は1919年5月6日の法律案を検討した際、大臣のクレマンテルへの協力者であり、不正の防止と「実質的な品質」の概念の形成に貢献した人物であった。

 私がジロンド県で確認した事態を説明したところ、彼は同じようなことがブルゴーニュでも生じていることを述べ、また、この地域で多くのブドウ栽培人がフランスとアメリカ品種の交配種を植えようとしていることを説明した。1919年5月6日の法律をこの点に関し修正する意図を表明し、彼の支援を得ることとした。

 私は、1919年5月6日の法律第1条の変えようとの運動を行うこととした。しかし、自分が考えている法案をいきなり議会での議論にもっていこうとは思わなかった。まず、ワイン組合を説得し、公衆の意見としての運動を盛り上げ、この公衆の意見が議員を動かしていくことが必要と考えた。

 私の考えた計画では、原産地呼称は原産によってのみ得ることができるのではなく、1906年の報告で述べたように、土地や品種に関する生産の用法(usages)によって品質が保証されなければならない。

 「実質的な品質」の表現を回復し、この点で議会での議論を戻すのは無謀であり、全く新しい原則で法律を構築する方が実現の可能性が高いと思われた。それは、1919年法に規定されている「用法(usages)」を十分広く解釈し、原産地呼称にとって市町村等の名前という商業的な用法のみでなく、土地や品種のような生産上の慣行も含むようにすることであった。

1919年5月6日付け法律第1条の検討
二つの主題の新たな対立

 いくつかの裁判所は、原産地呼称の権利を備えるには産品は原産の条件と同時にその地域で適用になっている用法に合致した生産の条件を示さなければならないと考えていた。

 第1条を見てみると

 「ある原産地呼称が自分に対して直接的あるいは間接的に損害を与え、また、天然のあるいは加工した産品の自分の権利に反して、さらにその産品の原産に反して、又は、地域の伝統的な、忠実(誠実)な、継続的な用法に反して使用されていると考えられる場合は、何人もその呼称の使用を差し止める訴訟を提起できる」とある。この条文は、最初に読んだ時には理解するのに難しいということである。

 スタンダールは、行動を起こす場合、民法法典の条文を読んだといわれている。彼のこのスタイルは利益を生まなかった。この例は、法律を読む人に限定して行ないうることである。民法典の作成者は、原産地呼称法に含まれている考え方を説明するのに少なくとも3つの文言が必要と考えたと思う。

(1)民法典が所有権(第54条)又は販売(第1502条)を規定しているように原産地呼称を決定する文言

(2)原産地呼称にはどのような条件が満たされるべきかに関する文言

(3)呼称に関して法制上の規制はどのように生じるかに関する文言

(4)裁判所がこの問題について規制する権限を持っていることを示すため、第7条の規定に、判決あるいは決定は、その市町村の一部あるいはすべての住民と所有者に適用されることの条項を加えること。

 特に、上記第2の文言が重要であり、この文言によって法律は、原産地呼称法第1条の不明確な表現に代えて、明快さを備えるべきであった。「用法」という文言に法律作成者が賦与することを意図した正確な意味が読み取られなければならなかった。

 私は、この「用法」という文言には二つの意味があることを強く主張した。一つは商業上の用法であり、原産地呼称が隣接の場所に拡大していくことを防ぐことである。もう一つは生産に関する用法であり、特に、土地とブドウ品種に関係するものである。法律の作成者は原産地呼称がこの二つの「用法」の条件を満たすべきかを示すべきであったのは、上記第2の文言の中であったのである。

 法律が有効であるためには、原産地呼称は、地域の、忠実な、継続的な用法によって呼称の権利を得る原産地において生産される産品に適用されると同時に、地域の、忠実な、継続的な生産の用法に従って得られなければならないのである。

 法律の明快さの欠除によって裁判においては逆の決定がなされていったのである。

破棄院による法律の解釈

 破棄院は、この二つの異なる判決について整理をし、1919年法第1条の解釈を行った。破棄院は、法律作成者が意図したのは原産地の確定に関する「用法」のみと考えたのである。したがって、生産に関する「用法」は考慮すべきでないということになった。

不正を誘発する法律

 破棄院のこの解釈によってブドウ栽培に不適当な土地で栽培をする動きが生じてきた。1919年法の作成者がブドウ栽培の実際の条件を誤解することによって、法律がその目的を逸脱することになったということができる。不正を防止するこの法律が新しい不正を誘発することになったのである。

 真の条件からほど遠い抽象による法制の下院の決定であった。このようにして呼称が設立されても品質が全く表現されておらず、呼称の利点を得ることができなかった。このような場合どうなるか。呼称はもはや品質を保証せず、私の1906年の報告で懸念し、また、1911年にアンドレ・ルフェーブルが述べた危険が現実のものとなったのである。消費者を欺くものであった。

 1919年以前は、ワインは品質によってのみ権威が賦与され得た。それは、生産者と消費者との間にあるワイン商、仲介者の職業上の誠実、信頼及び価値であった。以降、ワインを権威づけるのは、ワインの性質がどうであれ、流通許可証(5)となった。決定された産地の中で単収の高い凡庸の品種を栽培する生産者がワインにプレミアムを付ける流通許可証を利用した。ワインの価値がどうであれ、流通許可証はその原産地のワインすべてに発行されたのである。

 この法制度は、また、生産者を害するものであった。平凡なワインに呼称の権利を与えることによって1919年法は呼称の真の所有者を不公正な競争にさらすことになった。それによって、地方も国も損害を被ることになり、海外に対しても呼称の保護が保証されないことになった。

新しい法律の必要性

 新しい法律の提案が急務となり、今までになく必要になってきた。私は、ブドウ栽培人が参加する全国レベルの会議、特に、フランス各地域のワイン生産組合の者が集まる会議を利用した。そこで、破棄院の解釈のような1919年法の危険を説明した。1920年から25年まで5つの会議が私の提案を採用していった。

 私は、1906年のように砂漠の中で叫ぶようなことはもはやしなかった。危険の可能性の予測を表明することをせず、存在を確認することができる現実の危険に注意をひきつけることにしたのである。このようにして、1919年5月6日の法律の改正に対して好意的な意見が次第に形成されてきた。

 シェロン(Cheron)農務大臣は、上質ワイン生産の危機の状況に対して必要な改善策を検討する「グラン・クリュ委員会」を設立した。フランスの上質ワインの偉大な産地の代表者が委員会のメンバーであった。私は委員長の資格で1919年法の改正に向けての検討を指導し、議会に提案すべき法律の条文を採択した。下院農民保護グループの議長でもあったので、この提案を説明し、このグループの賛同を得た。1925年6月23日私が議会に対して提案した内容は次のようであった。

 1919年5月6日付け法律第1条第1文と第2文の間にイタリック体で書かれた次の新しい規定が挿入された。

「加えて、前パラグラフの規定に従って決定された市町村あるいは地域の原産地呼称は、地域の、忠実な、継続的な用法に従って、原産の市町村あるいは地域で得られる産品のみに適用することができる。

 ワインについては、生産地域及びブドウの品種が主としてその原産地呼称を条件づける。いかなる場合においても直接交配種によるワインは原産地呼称の権利を有しない。」

 このようにして、裁判所は原産地呼称の権利を確立するに当たって、土地以外の他の条件と品種を決めることができるようになったのである。1927年に法案が投票され、記名投票で535票のうち反対0で次のような修正条文で可決した。

「 第3条 本法律第10条は、次の規定によって補完される。

 本法第1条に規定された原産地に関する定義規定にかかわらず、ワインについては、地域の、忠実な、継続的な製造方法による原料品種と生産地域からのものでなければ、地域のあるいは地方の原産地呼称の権利を有しない。

直接交配品種(hybrides producteurs directs)からのワインは、いかなる場合も原産地呼称の権利を有しない。」

1927年法の利点

 この法改正は、品質によって保証される原産の主題の決定的な勝利を保証するものであった。原産のみでの決定は、多くの失望の源であったが、その後、これは放棄されたのである。

 法律の不足点

 原産地呼称が提供する保証についてそれぞれ違いがあることが分かる。分類すれば次の4つになろう。

(1)判決によって生産に関する真正な規律が適用されている呼称産地で、そこでは生産地域や品種ののみでなく、栽培上のいくつかの最低条件が呼称の条件として決定されていた。この原産地呼称は、まれな例外でなく、他の産地が続くべき道筋を示すものであった。

(2)ジロンド県の有名な産地で1927年法が不適切に理解され、裁判所によって不適切に適用されていた。

(3)他の呼称では、1927年7月22日の法律が厳密に適用され、2つの条件のみが要求され、判決によって生産地域の確定と品種のみが決定されていた。

(4)以上の呼称以外の産地、つまり、大多数の呼称産地では、1927年法は適用されておらず、忠実な呼称とそうでない呼称が混同していた。

 1930年1月1日付け法律は、通常ワインについて生産の場所を示す単純な地理表示と上質ワインの原産地呼称とを区別した。法律第2条には、「いかなる場合においても生産の地理表示と原産地呼称とを混同してはならない。」と規定している。しかし、この混同をさける手段が全く示されていなかった。法律はある意味では不可能なことを要求していたのである。呼称ワインに与えられる有利な点を利用するため、非常に多くのワイン生産者が自分のワインを原産地呼称ワインであると宣言したのである。我々が前に述べたように、人間の側が完全に法律を逃れてしまったのである。その結果、呼称の数の増大が消費者を欺くことになった。

 1919年5月6日の法律は、原産地呼称に関する控訴院の判決は、係争が破棄院に上告されると停止すると定めている。不当に原産地呼称の利益を受けている生産者が控訴院で敗訴すると、直ちに破棄院に上訴してその決定を待ちながら呼称を利用し続けていた。貴重な時間を稼ぎ、不当に適用されている原産地呼称からの利益は、裁判の費用を十分補うものであった。このような理由から破棄院に上告するのがほとんどルールのようになっていた。

 1930年1月1日付け法律第3条は、「クリュ」、「シャトー」などの用語をワインの命名に使用することを禁止している。原産地呼称が宣言されているワインにはこの禁止が適用にならなかった。架空の「クロ」を作ることに成功したワイン商は市町村名あるいは地域名の原産地呼称に架空の「クリュ」を宣言したのである。このような法律は、原産地呼称の増大を許す機会を作ったといえる。生産者は地理上の基準に基づいて自分らのブドウ栽培地を裁判によって確定してもらおうと架空の訴訟を行った。裁判所は、呼称が一定以上の品質であるか、また、地域の、継続的な用法によって一定の名声があるかどうかを求めず、新しい地域を原産地呼称区域として指定していったのである。

 ワインの過剰生産を抑制するため、ワイン生産規範(Statut Viticole)(6)とよばれる法律が1931年7月4日に制定された。内容は後に述べるが、400ヘクトリットル以上生産している所有者を規制するいくつかの措置が設けられた。それらは、高い単収にかかる納付金、新植の制限、生産の多い年のブドウ収穫量の一部出荷抑制、収穫の一定割合のアルコールへの蒸留義務である。なお、原産地呼称ワインについては、その価値がどのようなものであれ、これらの規制が適用にならなかったので、また、即興の多くの原産地呼称がつくられたのである。

 最後に議会の話をすると、議会は1927年法の方針とは逆に、1919年5月6日の法律で形成された原則にのっとり、いくつかの地域の代表者に対して土地や品種に関係する品質について何ら保証しない原産地呼称の確定を勧めたのである。このようにして確定された産地は、法律の規定に従ってワイン生産規範法の通常消費ワインの生産者に課せられる規制の例外が適用された。つまり、混乱が最頂点に達したのである。

 ジロンド県のラフォルグ農業局長は、客観的な調査によってこの問題について報告書をまとめた。これによると呼称が宣言されたワインの割合は、この15年で心配される割合で増加してきた。これは、真の品質のワインに対して重くのしかかる危機の根本的な原因であった。1923年には原産地呼称ワインの総量は500万ヘクトリットルを超えていなかったが、1931年には999万5,682ヘクトリットルとなり、1934年には1,572万756ヘクトリットルに増大していた。1930年から1939年までの原産地呼称ワインの平均生産量は1,070万ヘクトリットルでフランス本国のワイン生産量の19%を占めていた。

 出荷抑制が厳しく適用されていたミディ及びアルジェリアの通常消費ワインの生産者は、偽の原産地呼称によって通常消費ワインの生産者に課せられる規制が適用除外になっていることに対して抗議した。このような悪用に反対する動きが生まれてきたのである。このようなことに終止符を打つ必要があった。

ワイン生産規範(Statut Viticole:条件の形成

 1927年以来、ワインの過剰生産の危機が深刻になり、通常消費ワインの市場が厳しくなっていた。1931年に議会は販売を規制し、危機を防止するためのワイン生産の組織化を宣言した。それは供給量を抑制し、需要を増大させる需給の均衡の課題で、ワイン生産規範とよぶ組織化の試みであった。ヨーロッパだけでなく、アメリカにおいても世界で起こる過剰生産の危険を防止することであった。

 1931年のワイン生産規範は、10ヘクタール以上の生産者に対して10年間の新植を禁止した。それ以上に重要なのは出荷規制であった。つまり、400ヘクトリットル以上の収穫をするブドウ栽培人に対して収穫の一定割合を超える量の出荷を禁止することである。アルコール蒸留義務が収穫の申告(7)の際の手持ち総量が定められた最高限度量を超えている場合に課せられた。

 これらの措置は、全く新しい措置で、当時の自由主義とは逆の性格のものであった。それは生産者側からの措置で、国家に管理される経済ではなかった。職業組織によって組織される経済であった。というのは、公権力は生産者が要求する措置を承認するのみであったからである。これは、フランスにおける生産の組織化の最初の試みであった。

 生産の組織化の試みは、慣行において大きな変化が見られ、職業組織は迫りくる危機を防止するためある程度の規制を受け入れる準備ができてきた。この時代において上質ワインの生産者のみが最も広い自由を享受していたのである。この自由が混乱を招いた。 事実、上質ワインの危機は通常消費ワインのそれとは異なっていた。というのは、上質ワインには過剰生産はなかったのである。反対に、有名なワインの生産地域ではブドウ栽培面積が減少していた。しかし、通常消費ワインの経済の原則が上質ワインの生産者のも及んでいた。

 不正ともいえる呼称によって、出荷の抑制やアルコールへの蒸留義務を免れている通常消費ワインの生産者が増加していること、原産地呼称ワインの生産の申告が1,600万ヘクトリットルもあること、原産地呼称スキャンダルがあることなどを考慮すれば、私が上院に提案しようとした法律による規律を上質ワインの生産者に受け入れさせる時期が来ているとの結論に達した。

解決に向けての検討

 原産地呼称の信用失墜に対して何をなすべきか。まず目を閉じてみよう。フランスの豊かさを喪失させるままにしていた。通常ワインと区別する呼称なくして上質ワインはないのである。原産地呼称の保護をあきらめることはワインに関するすべての品質政策をあきらめることである。今日の上質ワインは昔と同じように良質であり、その生産は当時において生産の誇張がない人間の活動の唯一の方法である。というのは1914年の戦争以前に大きな名声のあるワインの生産者は、毎年、何千ヘクタールものブドウを引き抜いていた。

 消費者とまっとうな生産者を保護することを拒否し、通常消費ワインの価格を超える価格で原産地呼称ワインを買っている消費者をごまかすことを許したらどうなるか。フランスは工業所有権、文芸、芸術及びワインに関する所有権を保護することに最も努力している国である。国際会議にフランスが派遣した法律家は権威を示した。フランスは平和条約において24カ国における呼称の保護を課したのである。

 また、最も数が多く、最も権威のある原産地呼称が存在するフランスは、イタリア、ポルトガル、スペイン及びルクセンブルグに比べ呼称の保護において先を行っていたであろうか。これは国家利益の第一番の問題であった。どのようにすればよいであろうか。事態をこのままにしておくわけにはいかない。何世紀も前からフランスが得ていた最も名誉あるこの分野の破たんを認め、生産への敬意が品質の探求にあるとする時代に修正していく努力が必要であった。私は、原産地呼称ワインの生産量をあるべき量にしていく必要があると考えている。つまり、1,600万ヘクトリットルを500~600万ヘクトリットルにすることである。最大の課題は、偽の原産地呼称をなくすことであった。真正な原産地呼称は、名声を受けるにふさわしい昔の品質を維持し、生き残っていることを思い起こさなければならない。しかし、どのようにしてこのような選別をするのか。名声を築き上げた昔の地域の用法に従って得られた品質のワインのみを原産地呼称と認めるにはどのようにしたらよいか。到達した結論は、生産の各要素、つまり、土地、品種、栽培条件を統制することであった。

統制原産地呼称法(AOC法)の提案と成立

 1935年5月12日に上院に対して提案した法案の内容は次のようであった。提案理由の中で述べたのは、「我々の前に存在する問題は2つである」であった。

 第一の問題は、通常消費ワインのみに適用される品質とは異なる品質を持つ呼称を消費者が容易に区別することができるようにすることであった。第2の問題は、最近まで選択されたワインにしか適用されなかった呼称について、生産の規律、品質の管理と保証をとり入れることであり、この目的のため、真の原産地呼称には、品種や生産地域のみでなく、ヘクタール当たりの平均収量、最低アルコール度、呼称に応じた他の条件など一定の生産条件を要求することである。しかし、誰がこれらの条件を設定するのか。裁判所なのか。ブドウ栽培人が裁判所に要求したのは、呼称の地域の確定だったのである。つまり、呼称の使用ができることを主張する人々の間の争いであったのである。

 しかし、今は、原産地呼称が有するワインの品質を確保することであり、消費者に対してはそれを保証し、生産の規律を確立することである。これは、裁判所の仕事となり得ないことは明らかである。生産の規律は明らかに職業上のことであり、職業関係者自身によってのみ確立することができるものであった。行政がこれに協力することは当然であるが、行政のみではこの努力を実行することは不可能である。

 1919年法が原産地呼称の法的地位を付与して以来、上質ワインのすべての地域において原産地呼称を護る組合が形成され、これら組合の連合体が組織された。これらの組織は、権威と能力があり、地域の組合、地域の専門家、行政の専門家の協力を得て、呼称の生産条件を決めることができる。国は委員会において代表することとし、多くの行政官がこの任に当たることになる。

 今や、上質ワインに適用される原産地呼称の管理・統制された品質を通常ワインの品質と区分するという問題である。ブドウ栽培人に対して自分のワインに原産地の名前をつけるのを禁止するわけにはいかない。しかし、選ばれたワインについての一定の呼称を消費者に知らせることはできる。それは統制呼称である。このことによって呼称の間での選択が成立するのである。

 提案理由説明において私は、全国委員会の設立(8)を提案した。上院のワイン委員会に示した事項に従った統制呼称を設定する法律を説明した。これは、上質ワインの産地のすべての代表者によってサインされ、1935年3月22日に提案された(9)。したがって、ワインの産地において二つの同じ名称の呼称が存在し、一つは統制呼称であり、もう一つは単純呼称と呼ばれる自由呼称であった。単一の呼称制度はブドウ栽培人に与えられなかったが、単一の呼称を採用するブドウ栽培人が年を追って増加したのである。統制原産地呼称が義務となったのは1942年4月3日であった。

訳者注

(1)1935年AOC法成立までのワインに関する主な法律

「30年間」とは下記の1905年法から1935年法までの30年間をさしている。

1889年のワインの定義に関する「グリフ法」

砂糖ワインなどの横行を防止するためのものであり、生鮮ブドウを発酵させたものをワインと定義し、「生鮮ブドウの発酵によってつくられる以外の産品をワインの名において、発送し、販売してはならない」と規定した。

1891年 ワインの色付けのため、特殊な物質を添加することを禁止した。

1894年 ワインにアルコールや水を加えることを禁止した。

1905年 不正防止に関する法律

ワインのみでなく、商品に関する不正を防止することが必要となり、罰則をもって不正を禁止することとした。

1907年 「カイヨ法」

フランス革命以後廃止されていたワインの生産の申告義務が復活した。また、ピケットの生産量も制限した。さらに、砂糖ワイン等の生産を抑制するために砂糖に対する税を重くした。

1908年 「デリミタシオン法」

  1905年法に基づき、地域の忠実な、継続的な用法によって産地区画を確定することとした。これによって行政命令による産地区画の確定が行われるようになった。

1919年 原産地呼称法

  裁判によって原産地呼称の区域を確定していくこととなった。

1927年 1919年法を改正する法律

  原産地呼称の生産条件としてブドウの品種規制を導入した。

1930年 1919年法を改正する法律

  原産地呼称にしか使えない伝統的表現を指定した。 

1931年 ワイン生産規範法

  ワインの過剰生産抑制のための諸措置を導入した。

1935年 統制原産地呼称法(AOC法)

(2)1905年法

この頃は、ワインのみでなく、商品に関する不正を防止することが必要となり、1905年に不正の禁止と罰則に関する法律が制定された。それによれば、すべての商品とサービスについて、性質、種類、原産、品質、構成、量、用法などに関する虚偽あるいは虚偽の意図に対しては罰則が適用され,また、食品や農産物が人間の健康に害がある場合も罰せられることになった。この1905年法は、フランスにおける不正の防止に関する法律の出発点であり、以後、不正の防止はこの法律を基にして拡充されていった。1907年には違反行為取締局が設立され、ワインの違反に対してもこの取締局が監視することとなった。

(3)シャンパーニュの反乱

シャンパーニュ地方では、「シャンパーニュ」と名のれる産地の確定作業が行政命令によって進められた。1909年の政令では、マルヌ県全域とエーヌ県の83ケ村でできるワインのみと限定したが、原料ブドウはエーヌ県の他の地域やオーブ県からのものでもよいとされた。これに対しマルヌ県のブドウ栽培人は、自分たちの伝統的な権利を守ろうとして、他の県からのブドウを原料としてもよいとするのを不服として、反乱を起こし、シャンパーニュ製造者の酒蔵を襲撃した。このため、1911年に、原料ブドウも先のマルヌ県とエーヌ県の一部に限るとの決定がなされた。ところが、オーブ県のブドウ栽培人が猛反発した。ナルボンヌの反乱と同様、納税拒否が宣言され、激しいデモが行われ、多くの村長が辞任した。上院でブドウ産地限定の廃止の宣言がなされると、今度は、マルヌ県のブドウ栽培人が反発し、反乱行動に出た。政府は1911年夏、シャンパーニュ地方に軍隊を派遣して、騒動の鎮圧を図った。シャンパーニュの産地の確定がようやく決着したのは、1927年であった。

(4)交配種

アメリカ品種は、アメリカ原産のフィロキセラに強いことはもちろんのこと、アメリカ原産のベト病に対する抵抗性にも優れ、収量も多く、かつ、栽培もしやすい品種であった。このことから、フランスでも1860年代のフィロキセラ侵入以降栽培が拡大していった。しかし、ワインにすると風味が劣り、キツネ臭といわれる異臭もあるとされている。次に登場してきたのがアメリカ品種とヨーロッパ品種とをかけ合わせた交配種である。フィロキセラに抵抗力があり、多収で、風味も劣らない品種を求めて交配されていった。しかし、フランス品種の特性を維持するためには、アメリカ品種の台木にフランス品種を接ぎ木することであり、この方法がフィロキセラに対する最終的な解決方法として確立されていった。しかし、ブドウ畑をこの接ぎ木した苗木に変えるための費用は高く、特に資力のないブドウ栽培人は、依然としてアメリカ品種やその交配種を栽培していた。

(5)流通許可証

ワインを含むアルコール飲料については、租税法典によって税務当局が発行する流通許可書がなければ流通させることができない。この流通許可書は基本的には流通税が支払われたことの証明書であり、出荷者及び受取人の氏名、出荷日、発行した事務所、飲料の種類、量、輸送の条件等が記入される。この許可証に原産地呼称名が記入され、原産地呼称の証明書の役割を果たしたと思われる。また、番号が付され、産品の種類に応じた色によって識別されるようになった。35年のAOC法によってAOCワインについては緑色の流通許可書で流通すると規定された(第22条)。

(6)生産(収穫)の申告

ワインの生産の申告義務はフランスではかなり古くからあり、ワインの蔵出税をかけるときワインの生産量の不正を防止するために導入され、フランス革命後一時廃止になっていたものが1907年のナルボンヌの反乱を契機に復活した。

生産の申告は、ブドウの収穫の申告、ワインの生産の申告、ワインの在庫の申告からなっており、租税一般法典によって定められている(第407条及び第408条)。ブドウ栽培人は収穫後収穫量を、ワイン製造者はその年の生産量を遅くとも12月10日までに市町村に申告しなければならない。消費者と小売業者以外の者は、7月31日時点におけるワインとブドウ果汁の在庫量を申告しなければならない。

(7)ワイン生産規範法

当時、ワインの過剰生産がなお、続いており、1931年にワインの過剰を調整するためワイン生産規範法が制定された。この法律によって、ブドウの単収が高いと高い率の納付金(1ヘクタール当たり101ヘクトリットルから250ヘクトリットルの単収を6段階に分けた累進的納付金)を支払わなければならないこと、生産の申告の際ヘクタール当たり400ヘクトリットル以上の収穫がある場合は、その一定割合を出荷停止できること、また、10ヘクタール以上の畑の所有者あるいは500ヘクトリットル以上生産する者は10年間、新たにブドウの植え付けを行ってはならないこととされた。さらに、灌漑規制や補糖規制も導入された。400ヘクトリットル以上の出荷制限は原産地呼称ワインには適用にならなかった。

(8)ワイン及び蒸留酒に関する原産地呼称全国委員会

AOCワインを管理・統制する機関として、AOC法成立のときから設けられた機関である。制定当時のAOC法はワインと蒸留酒のみを対象としていたので、その名称は「ワイン及び蒸留酒に関する原産地呼称全国委員会」であった。1947年には政令によって「委員会 Comité」から「機関 Institut」と名称が変わった。さらに、1990年法によってAOCがワイン以外にチーズなどのその他の農産物・食品にも適用になることになったので、名称が「原産地呼称全国機関」となり、この時点での名称がINAO(Institut National des Appellations d’Origine)である。委員会の初代委員長はカピュ議員であった。ル・ロワ男爵は1947年から20年間INAOの所長であった。

さらに、2006年の法改正による農産物・食品の品質証明制度の整理によって、INAOは原産地呼称産品のみでなく、新たに分類された「「品質・原産地証明表示」(signes d’identification de la qualité  et de l’origineの産品すべてを扱うことになり、原産地呼称、農業ラベル、保護地理表示(EUの制度)、伝統的特性証明(EUの制度)及び有機食品を扱うこととなった。これに伴い、INAOの名称は「原産及び品質全国機関」となった。しかし、INAOの略称は、そのまま継続使用されることになっている。現在、INAOはフランスの食の伝統と質を守る食品政策上の重要な機関となっている。

(9)ル・ロワ男爵

AOC法成立にはピエール・ル・ロワ男爵の貢献も大きいとされている。ル・ロワ男爵は、第一次大戦のときに戦闘機のパイロットとして活躍したが、1919年にシャトー・ヌフ・デュ・パプの産地のシャトー・フォルティアの相続人との結婚によってシャトーの所有者になった。彼は、コート・デュ・ローヌのワインの質の低下と不正を防止するため、1924年にシャトー・ヌフ・デュ・パプの組合を設立、1929年にはコート・デュ・ローヌの組合を設立し、原産地呼称の改善に取り組んだ。1933年にはシャトー・ヌフ・デュ・パプの原産地呼称に関する破棄院の判決を得、その内容は、産地区画の確定のほか、植えることができるブドウの品種、ワインのアルコール度など生産に関する条件を含んだものであった。この判決がAOC法(統制原産地呼称法)の原型になったとされている。

 
この文書は、農政調査委員会の「のびゆく農業」983、2009年12月に掲載されたものの一部である。

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